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朝に礼拝 夕に感謝!
京都にある老舗仏壇・仏具店、若林佛具製作所から「あんなこと」「こんなこと」さまざまな情報を発信します。朝(あした)に礼拝(らいはい) 夕(ゆうべ)に感謝!
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万人幸福の栞 (その10)
本日は、「万人幸福の栞」17条の10個目


「働きは最上の喜び」です。

人はただ生きているだけでは、何の意味もない。働いてはじめて生きがいがある。
働いている時が、ほうとうに生きている時である。
何もせずに、ぼんやり過した1日は、死んだ1日である。
じっとしていなければならぬほど、困ったことはない。
仕事のない時ほど、つまらぬことはない。
職を止めると、間もなく死んでしまう人の多いのは、
仕事がなくなると同時に、気がぬけてしまうからである。
そして働く人は健康であり、働く人は長命である。
世の人は、身体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。
働かないから(こわごわと恐れたり、いやいやながらなまけたり)
働く心がならぬから、体が弱々しいのである。
病気になってからでも、出来る仕事を心配なく働きつづけていたら、
それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるものである。
実はほんとうの働きの意味を知って働きはじめると、
たいていの病気が直ってしまうのは、ここに幾百千の体験が証明している。
働きが一切であり、働きが人生である。働きが生命である。
この働きには、そのままに、必ず「報酬」がついている。
金銭でうける「報酬」は、多少があり、不公平があったりするかもしれぬが、
この自然にして当然に受ける報酬は、かならず働きに比例して、
落ちもなく、忘れられもせず、必ず直ちに与えられる。
それは「喜び」という報酬である。
ま心で働いた時、必ず喜びがわく。何の期待もなく、予期するところもなく働いた時、
おのずからに感ずる喜びは、他のどんな喜びにもかえることは出来ない。
まことの働きには、すでに「喜び」という無上の報酬が与えられているので、
いわゆる普通の給与は、喜んで働く人を、養い、歓待する天のめぐみである。
いや、自然に与えられる割増金であると、感謝してうけるのがほんとうであろう。
世の楽しみは多い。好きな物をたべる、美しい物を見る、よい着物をきる……
いろいろの喜びの中で、どれほどつづけるも、如何にひどくても、
いよいよ高まり深まって行くのは、働きに伴う喜びである。
地味で素朴で尽きぬ喜び、中でも、まことの働きにより、人を助け、人を救い、
人の喜びをわが喜びとする、その喜び、これこそ地上無比な喜びである。
元来仕事そのものには、上下貴賤の別があるのではない。
職業には尊卑はない。自ら軽んずる心を持つ働きを人が賤(いや)しと思い、
自ら重んずる職業を人が尊ぶのである。
つまらぬ仕事だとか、いやなことだとか考えて、仕事の好ききらいをする。
こうした人は、一生涯たましいを打ちこんだ仕事につく事は出来ず、
人生のまことの喜びを満喫する事は出来ない。
自分の只今ついている仕事の尊さを悟って、けんめいに働く時、
自然に与えられる楽しみ、これは何物にも替えることの出来ぬ人生の喜びである、
最高至上の歓喜である。真の働きには喜びが伴うだけではない。
肉体に健康も、物質の恩恵も、地位も名誉も、おのずからついてくる。
人が生きているということは、働くことである。働く喜びこそ、生きている喜びである。



働くことは素晴らしいことです。
仕事に好きも嫌いも、良いも悪いもないというのが私の考えです。
どんな仕事も、その人にあったものがその人にあてがわれます。
人生が修行である以上、これは必然なのですね。

どんな境遇でも、前向きに一生懸命働いている人は美しいですしキラキラしています。

逆に仕事もしないで文句ばっかり言っている人は、
心のどこかに劣等感がありますから楽しくないのです。

責任ある仕事を任されたとき、人は俄然やる気を出します。
自分が認められていると感じたり、必要とされていると感じたときに
その人の本領が発揮されます。

働く喜びを感じつつ、明日も顔晴りましょう!


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